今日のテーマ
☑クリヤヨーガの意味と目的
☑5つの煩悩とその根因
तपः
स्वाध्यायेश्वरप्रणिधानानि क्रियायोगः 2-1
タパハ スワーデャーエーシュワラプラニダーナーニ
クリヤヨーガハ
タパ、スワーデャーヤ、イーシュワラプラニダーナ。
この3つをクリヤヨーガという。
【解説】
タパ、スワーデャーヤ、イーシュワラプラニダーナはそれぞれ異なる行でありながらも、マインドを清浄に保ち、気道の流れを整えます。クリヤヨーガはサマーディに達するための行で次々におこる煩悩をコントロールします。
・तप タパ 苦行
日本語では苦行と訳されます。由来は「熱」という意味があり、ダルマの遂行が熱心であるほど、体内の気の管に詰まった障壁となっている詰りが取り除かれることが目的です。これは肉体次元の詰まりに限らず、スークシュマ・シャリーラとよぶ微細体の詰まりをも除去していきます。
在家か出家に関わらず、自分のカーストやインドの四住期制度のどの節目に生きているか、また社会的立場や能力に応じてダルマを遂行します。それが社会奉仕のカルマヨーガであれば、自分の利を勘定にいれず無償の気持ちで行うことが前提にあります。特定のマントラを1万回唱える、太陽礼拝を100回する、これらもタパです。
タパの本来の由来である“熱”が発生すると、起爆剤となって気道の詰りやヨガの修行において先にある障害を打ち壊すほどのエネルギーになります。この熱はヨガが進むうちに腹部から発するアグニとよぶ火と関係があるものです。
「最近、気道が詰まってるな」と、湯舟に浸かって外的に体に熱を与えるだけのものは血流が良くなったり、リラックスして、寝付きがよくなるなどあるのですが、ウトサーハ(उत्साह)とよばれる「活が入った状態」「熱意」が生じません。腹部から自家発電される熱に意味があります。
・स्वाध्याय スワーデャーヤ
読誦。ヴェーダやそれに追随する文献の読誦。そのほか、自分自身について学ぶこともスワーデャーヤとよばれます。
・ईश्वर प्रणिधान イーシュワラ プラニダーナ
(同義語 ईश्वर शरणागति イーシュワラ シャラナーガティ)
自在神祈念。真言を唱えるジャパや祈祷とよばれるプージャのほか、神の道具になりきって私欲のない気持ちでカルマヨーガをすることもイーシュワラプラニダーナです。
क्रियायोग クリヤーヨーガ
上記3つのヨーガ行法をいう。
समाधिभावनार्थः क्लेश तनूकरणार्थश्च 2-2
サマーディバーヴァナールタハ クレーシャ タヌーカラナールタシュチャ
समाधिभावनार्थः サマーディバーヴァナールタハ
(上記クリヤヨーガは)サマーディを修習するものであり、
क्लेश クレーシャ
煩悩(を)
क्लेश クレーシャ
煩悩(を)
तनूकरणार्थश्च タヌーカラナールタシュチャ
弱めるためにある。
अविद्याअस्मितारागद्वेषाभिनिवेशः क्लेशाः 2-3
アヴィディヤースミターラーガドゥヴェーシャービニヴェーシャハ
クレーシャーハ
クレーシャ(क्लेश)とよぶ煩悩の種類は以下5つあります。
・अविद्या アヴィッデャー
(打消しの”ァ” अ
+ 智慧 ヴィッディヤー विद्या )
無明、無知
・अस्मिता アスミター
我想。私という意識。
・राग ラーガ
貪愛、愛着
・द्वेष ドゥヴェーシャ
憎悪、嫌悪
・अभिनिवेश アビニヴェーシャ
生命欲
無明、無知
・अस्मिता アスミター
我想。私という意識。
・राग ラーガ
貪愛、愛着
・द्वेष ドゥヴェーシャ
憎悪、嫌悪
・अभिनिवेश アビニヴェーシャ
生命欲
अविद्या क्षेत्रमुत्तरेषाम् प्रसुप्ततनुविच्छिन्नोदाराणाम् 2-4
アヴィディヤー クシェートラムッタレーシャーム
プラスプタタヌヴィッチンノーダーラーナーム
अविद्या アヴィディヤー
(5つの煩悩の中でも)無明(は)
क्षेत्रमुत्तरेषाम् クシェートラムッタレーシャーム
(のこり4つの煩悩を生み出す)原因、田地である。
क्षेत्रम् クシェートラム
田地。大地。原因。
Mの子音字“म्”が語尾につく単語はサンスクリット語で中性名詞です。クシェートラ(क्षेत्र)はヒンディ語で、サンスクリット語ではクシェートラムです。
のこり4つの煩悩は、以下にしめすプラスプタ、タヌ、ヴィッチンナ、ウダーラという4つの段階を持っているが、無明(アヴィディヤー)は常にそれらを作り出す田地として存在する。
・प्रसुप्त プラスプタ
煩悩が眠っている状態、潜在的な状態。
・तनु タヌ
(修業によって、または物事を経験した後に心の逆転変が生じ)煩悩が弱められた状態、弱まった状態
・विच्छिन्न ヴィッチンナ
(वि+च् +छि +न् +न )
ある煩悩が一時的に勢力を強めている時に、それに押されて他のある煩悩が中断している状態。
・उदार ウダーラ
煩悩が増大している状態。
अनित्याअशुचिदुःखानात्मसु नित्यशुचिसुखाअत्मख्यातिरविद्या 2-5
アニッティヤーアシュッチドゥカートマス
ニッティヤシュッチスカートマキャーティラヴィディヤー
無常、不浄、苦、非我であるものに対して、常、浄、楽、真我であると考えることを無明という。
अनित्य アニッティャ 無常
अपवित्र アパヴィットラ 不浄
दुःख ドゥカ 苦しみ
अनात्मा アナートマ 非我
(仏教の四念処と同じ、無常・不浄・苦・非我)
नित्य ニッティャ 常
पवित्र パヴィットラ 浄
सुख スカ 楽、幸
आत्म アートマ 真我
ख्याति: キャーティヒ
識別すること。認識すること。
दृग्दर्शनशक्त्योरेकात्मतैवास्मिता 2-6
दृग्दर्शनशक्त्योरेकात्मतैवास्मिता 2-6
ドゥリグダルシャナシャクトョーレーカートマタェヴァースミター
दृक्-शक्ति ドゥリク シャクティ
見る主体である力。真我。プルシャ、ドラシュターともよぶ。
दर्शन -शक्ति ダルシャナ シャクティ
見る働きである力、知力、覚。
दृग्दर्शनशक्त्यो: ドゥリグダルシャナシャクテョーホ
真我と覚の両者を
एकात्मता इवास्मिता エカートマター イヴァースミター
同一視することをアスミター(我想)という
真我と覚の両者を
एकात्मता इवास्मिता エカートマター イヴァースミター
同一視することをアスミター(我想)という
真我は寂静の中にあり、けがされることのない不変の存在であるのに対し、カルマの流れの中にいる経験を享受し情報処理する覚(ブッディ)は自分が経験している主人公だと思う。ここに我想という「経験している私」が生まれ、それが真我であると同一視していること。無明が消滅するまでは、見ているだけの主体であるプルシャと、見聞きするセンサーである覚は同一視されます。
सुखानुशयी रागः 2-7
スカーヌシャイー ラーガハ
सुख スカ
快楽
सुखानुशयी スカーヌシャイー
快楽の背後にある煩悩のことを
राग ラーガ
愛着という。
दुःखानुशयी द्वेषः 2-8
दुःखानुशयी द्वेषः 2-8
ドゥカーヌシャイー ドゥヴェーシャハ
दुःख ドゥ ク
苦しみ
दुःखानुशयी ドゥカーヌシャイー
苦しみの背後にある煩悩のことを
द्वेष ドゥヴェーシャ
嫌悪という。
स्वरसवाही विदुषोऽपि समारूढोऽभिनिवेशः 2-9
スワラサワーヒー ヴィドゥショーアピ サマールードー
アビニヴェーシャハ
स्वरसवाही スワラサワーヒー
昔から本性に刻まれており
विदुषोऽपि समारूढो ヴィドゥショーアピ サマールードー
賢人にも存在するとされる(死ぬことに対する恐怖は)
अभिनिवेश アビニヴェーシャ(abhinivesha)
生命欲 である。
生まれ変わりの数だけ死も体験し、また生まれ変わることを直観的に感じていようがいまいが、死によって消えてしまうという恐怖はどんな賢人にも体験的に刻まれています。一般的には生存本能と言われるものですが、輪廻思想が根付いている仏教やヒンドゥ思想では、過去世でも何度も経験した死の恐怖が克服できずにいます。
また、死にたいと思って自殺するとしたら、そのあとに生まれ変わりが待っています。生まれ変わりが何故起こるのかというと煩悩のひとつ、生命欲があるからとされます。この世に肉体をもって存在していようがいまいが、真我の存在は不滅で何からも影響を受けないということを、普段はありのままに見る訓練をしている人であっても、生命欲や他に生まれ変わりたいという欲はこの世に動植物か生まれた時から根付いていて、それは無明からくる煩悩ですよ、と言っています。死への克服というのは大きなテーマでこの節では枠に収まりきりませんが、ヨーガの経典の中では生命欲というものは、無明からくる煩悩です、と説いています。